チベットでの民衆蜂起に対する中国政府・軍の弾圧には、大いに憤りを感じるところだ。中国政府・軍に対しては厳重に抗議しなければならない。また日本政府には毅然とした対応を要求する。当たり前のことだ。ただ、昨今いくつかの反戦平和ブログを見ているとコメント欄に「なぜ平和、護憲を唱えながら今回のチベット弾圧を無視するのか」という書き込みがけっこうみられる。
なぜ○○しないのか。この手の非難は一見、まともに思わせるところがないではない。言われた側がマジメであればあるほど「やるべきことをやっていない」という気分にさせられ、人によってはおろおろする場合がないとも言えない。
だが、こうした議論にはほとんど意味がないと思われる。
まず重要なのは、批判している側は何かやっているのかということだ。こうした、感情的な日本語の文字列をインターネットを通じて何人かの人に見せつける以外にだ。その程度しかしていない者が、倫理的な優越性−少なくとも他人を非難するに値する程度の−を持っているとは思えない。
次に、仮に何らかの運動を担っているとしても、それを根拠に、別課題の運動を担う人が自分の関心領域に加わらないことをどの程度非難できるかということだ。考えれば分かるが、世の中に運動が必要な課題は山ほどある。自分が問題だと思っていることだけが問題なのではない。いろんな人がいろんな関心を持って、声を挙げるから民主主義社会なのだ。社会運動をしようとする者が、森羅万象の課題を網羅的に担わなければならないのだとすると全員パンクである。それぞれの関心で、相互批判をしつつ進めていけばよいだけの話だ。そんなことは少し考えれば分かる。「自分が気になって気になって仕方がないことをやってくれなきゃヒドイ」というお子ちゃまのリクツに陥っているなら別だが…。
そして、本質的には彼らは本当にチベットのことを考えているのかと言うことだ。チベット問題にもっと関心を寄せられるべきだという意見はあるだろう。チベット問題の、日本国内の関心の向け方が足りないという主張があってもいい。だが、こうしたブログのコメント欄にみられる彼らの言説の中心は−読むに耐えぬ語群を理性的に解釈しても−チベット問題を取り上げようという提起というより、チベット問題を担わない反戦平和派は欺瞞的だという非難であり揶揄である。チベットを解放したいから書き込みをしているのではなく、畢竟、反戦平和を掲げる団体・個人への悪罵のネタとして、チベット蜂起で犠牲になった人たちを利用しているにすぎないのではないか。そのことに潜む欺瞞を彼らはどう弁明するのだろうか。彼らは本当にチベット問題に心を痛め、憤りを感じているのだろうか。
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